1.人の魂が救われるために豚の命が犠牲となった。
イエスは弟子達と共にガダラ地方に行きました。すぐに悪霊につかれた人が二人、墓場からやって来てイエスに対峙しました。悪霊達はイエスが神の子であることを知って恐れおののき、まだ時ではない(主の再臨の時には悪魔・悪霊達は滅ぼされる)のにもうやってきたのですか?と言いました。しかしイエスは人の魂を悪霊から解放するために来られたのです。悪霊達が豚の群れに入ることを懇願したのでイエスは「行け」と命じました。すると豚の群れは湖になだれ込んで溺れ死んだのです。イエスは二人の人の魂を悪霊の支配から解放されたのですが、この時、豚の群れの命が犠牲となったのでした。
2.町の人たちの反応は歓迎ではなく拒否だった。
二人の人が悪霊から解放されたのを見た町の人達はイエスを歓迎することなく拒否しました。この場面は誰の立場で考えるかで感じ方が変わるでしょう。悪霊から解放された人の立場に立てば解放・歓喜の時でした。しかし豚を飼っていた人達の立場に立てばイエスの業は大損害・大迷惑行為だったのです。私達も豚を飼っていた人の立場に立つならば、たとえ他人の魂が救われても喜べず、自分が被った損害だけを考え、イエスを拒否してしまったことでしょう。私達人間はどこまでも自分と自分の生活を中心に考えてしまう罪の性質を抱える者なのです。
結論:イエスは、この時イエスを拒否した人達を含むすべての人を罪から贖うためにご自分を与えて下さいました。(Ⅰテモテ2:6)私達罪人が救われるために神のいのちが犠牲になったのです。確かに救いは無償の贈り物ですが神の子のいのちの代価が払われているのです。神はイエスのいのちの代価を払って罪ある私達がどれほど神にとって高価で尊い存在かを、十字架で示して下さったのです。
(聖書引用 聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会)