救い主イエスのご降誕おめでとうございます。イザヤ書43:4aにこうあります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」しかしこれがもし言葉だけなら「本当ですか?!世にあって苦しみも悲しみもあるんですよ。」と言い返したくなります。その私達人間の叫びに応えて神はへりくだり、低くなって降って来て下さいました。
1.キリストは神のあり方を捨てて下さった。
「Christ-mas(クリスマス)」とは「キリスト・ミサ」という言葉で「キリスト(降誕)のお祝い」を意味します。神が人となって下さったことで神が本気で私達を愛して下さっていることが明らかになりました。キリストは、神の姿であられるのに、神としてのあり方を捨ててご自分を空しくし、痛みや苦しみを抱える私達人間と同じようになられ、自らを低くして、十字架の死にまでも従って下さいました。(ピリピ
2:6~8)私達が神のところに頑張って昇るのではなく、神がへりくだって私達のところにまで降りて来て下さり、私達と同じようになられた。ここに私達に対する神の愛が現れたのです。
2.私達人間は優位に立とうとする。
一方、私達人間はどうでしょうか?私達は自らへりくだることはできず、かえって人より優位に立って自分の思い通りにしたい。自分の考え通りに人を動かしたい、という罪の欲求があるのではないでしょうか?エデンの園で「神のようになれる」と悪魔にそそのかされた時、その言葉に魅せられて人は善悪の知識の木の実に向かって(下から上へ)手を伸ばしたのです。私達のうちには生まれつき「人の上に君臨しようとする肉の欲」(リビングライフ
10月号 Duranno出版P.160)があるのです。幼子イエスを殺そうとしたヘロデ王の姿は、実は私達自身の姿なのです。
結論:しかし神はそんな罪人の私達のところにまでへりくだって降って下さいました。それは私達のうちにある傲慢の罪を代わりに背負って十字架で死んで下さるためでした。イエスこそ誰よりも低くなり、侮辱の十字架を引き受けて下さるほどに私達を愛し、罪から救い出して下さったすべての人の救い主です。このイエスを共に見つめる。ここに平和があるのです。
(聖書引用 聖書新改訳2017©️2017新日本聖書刊行会)