私達の人生に律法を成就するイエス

マタイの福音書5:17~20
今日はマタイの福音書の中心テーマです。イエスは一体、何をするために来られたのでしょうか?みことばに聴きましょう。

1律法を廃棄するためではなく成就するために来た。
イエスは「わたしが律法や預言者を廃棄するために来た、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです。」(マタイ 5:17)と語りました。なぜイエスはこう語ったのでしょうか?それは、当時の人々(また後の人々)が「あのイエスは神の律法(旧約聖書)を無視している!」とか「恵みによって救われるのだからもう律法なんか関係ないね」
という風にイエスとイエスの教えを誤解していたからです。イエスは決して律法を廃棄するためではなく、かえって成就(完成)するために来たのです。

2.イエスは人を仲たがいさせる律法を廃棄された!!
しかしエペソ2:15を見るとイエスが「様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました」とはっきり書いてあります。これで私達は「え?イエスは律法を廃棄したの?しなかったの?」と混乱します。これを理解するにはそれぞれの文脈を理解することが大切です。
エペリ書2章の文脈において「様々な規定から成る戒めの律法」とはユダヤ人と異邦人(私達)の間に隔ての壁をもたらすものでした。しかしイエスが全ての敵意(罪)を十字架で引き受けて下さったことにより、ユダヤ人と異邦人(私達)の間の仲たがいの原因となっていた「様々な規定から成る戒めの律法」を廃棄して下さり、両者の間に神との平和をもたらして下さったことが語られています。一方、マタイ 5章の文脈の「律法」とは、「律法の本質・本来の目的(神を愛し隣人を愛する)」を意味し、イエスは決して律法本来の目的を廃棄したのではなくかえって成就(完成)するために来たことが語られているのです。

結論:私達は自分の力で律法を行えない罪人です。
だからこそイエスが私達に対する律法の要求を代わりに引き受けて刑罰を受けて死に、よみがえらされて下さったのです。このイエスに信仰によって結ばれた私達は、律法を完全に行い切ったイエスご自身の義をいただき、まるで私達がイエスの生涯を生きたかのように、神が私達を見て下さっているのです。
(聖書引用 聖書 新改訳 2017©2017新日本聖書刊行会)