幸いだ。義のために迫害されている者は。

マタイ5:1-12
イエスが語った8福シリーズの最後です。 
「何と幸いか!義のため(イエスのため)に迫害されている者(追われている者)は。」イエスのみことばに耳を傾けましょう。

1.イエスを信じて罪から教われた者は苦難も受ける。
日本のクリスチャン人口は約1%と言われています。その日本において私達はキリストを信じるゆえに生活のいろんな場面で葛様を覚えることがあるのではないでしょうか?救いの初穂として家族の中で自分ひとりだけがクリスチャンである場合も、クリスチャンホームに生まれ育った場合もそれぞれ違う悩みの中で祈りながら生活されていることでしょう。使徒パウロはこう書きました。「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことでもあるのです。」(ピリピ 1:29) 
キリストは私達の罪を負って苦難を通って死に、栄光のからだでよみがえらされて生きておられます。そのキリストに信仰によって結ばれたならば私達もキリストの受けた苦難を共有することになると言うのです。しかし逆に言えば、信仰のゆえに苦難を通っているならそれはキリストの方に向けられているという証拠でもあるのです。 

2.私達の格闘は血肉(人)に対するものではない。
便徒パウロは私達の格闘は血肉(人)に対するものではなく見えない悪霊に対するものだと言いました。(エペソ6:12) 
私達が目の前の人を憎んで攻撃するように仕向けるのが悪魔の策略です。それを心に留めながら、もし不当な扱いを受けた時にはイエスのようにきちんと対話をし(ヨハネ18:23)、最後は正しくさばかれる神に自分をゆだねることができるのです。 

3.跳んで喜びなさい。天において報いは大きいから。
イエスは、義のために迫害されている者には天において報いが大きいのだから跳んで喜びなさいと言いました。日本のキリシタン達もこのイエスのみことばを根拠に迫害の中で主を賛美しながら殉教していったのです。 

結論:しかし殉教は私達の決心や意思によってできることではありません。ペテロも3度踏み絵を踏んだのです。しかしイエスは「あなたの信仰がなくならないように」祈ったと言って、彼を立ち直らせて下さいました。その同じ主イエスが私達を何度でも立ち直らせて、信仰生涯を全うさせて下さるのです。
(聖書引用 聖書新改訳 2017©️2017新日本聖書刊行会)