幸いだ。平和をつくる者は。

20240324「幸いだ。平和をつくる者は。」マタイ5:1-9
今日は棕櫚の日。主の受難週の始まりです。イエスは軍馬でなく子ロバに乗り、平和をもたらす者としてエルサレムに入城されました。イエスこそ、ザ・平和をつくる者です。みことばに聴きましょう。

1.私達は自分の力で平和をつくることができない。
私達は平和を愛しますが「平和をつくる」ことは難しいと感じるのではないでしょうか?私達人類の文明は進歩し、生活は便利になりましたが罪の本質はエデンの園の時から何も変わっていない状況を見る時に自分の罪を素直に認めざるを得ません。罪とは「神基準」ではなく「自分基準」で善悪を判断することであり、自分基準の平安(平穏)を追求する時には互いにぶつかり合ってしまうことがあるのです。

2.真の平和(シャローム)とは神にあって調和があること。
イエスが語った平和(シャローム)とは「すべての被造物が、創造者との関係及びお互いの関係において、それぞれにふさわしい位置に置かれること」(中澤啓介者マタイの福音書P.317参照)であり、創造者なる神を中心としてすべての調和がとれている状態を意味します。しかしその調和は初めの罪によって壊れてしまったのです。

3.イエスが私達に神との和解をもたらして下さった。
私達人間は自分の罪ゆえに自分で神との関係を修復することができません。だからこそイエスが来て、私達の罪と敵意を十字架で引き受けて滅ぼし、私達に神との和解をもたらして下さったのです。神との関係が修復されたことにより、私達は神から流れて来る愛によってお互いに和解させられ、さらに和解へと向かう道へと導かれ続けているのです。

結論:聖霊は私達を不快にします。(JCE7 講師塚本良師)初代教会も経験しましたが、聖霊が文化や価値観の異なる全ての人を救おうと招いておられますから時に私達は不快に感じることも起こってくるのです。しかしそこで互いに向き合うのではなく、共に主の十字架を見つめる時に、いろんな考え方の違いを聖霊が乗り越えさせて下さいます。イエスが十字架上で私達のためにとりなして下さったその愛を受けて私達も相手の方の祝福を祈りながらイエスのように平和をつくる者に変えられていくのです。
(聖書引用 聖新改訳 2017©2017 新日本聖書刊行会)