幸いだ。心のきよい者は。

マタイ5:1-8
幸いな人シリーズ⑥です。自分の心を見て「私の心はきよくないので神を見ることができない」と思ってしまうかも知れませんが、「心のきよい者」とは、どういう人なのか?みことばに聴きましょう。 

1.罪に気づかされながら神に向けられている人。
まず「心の」きよい者ですから外見のきよさや美しさについて言っているのではありません。イエスは、律法学者・バリサイ人にまず内側(心)をきよめるように。そうすれば外側もきよくなる、と言われました。 
(マタイ 23:25~28)それでは私達の心はきよいのでしょうか?実は「きよい心」とは「綺麗な心」ではなく、単純・二心でない一つの心という意味があります。 
これはダビデが「私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」(詩備86:11)と祈ったように、いろんな事に煩って分散している私の心を一つにして主に向けて下さいという願いにも表れています。 
「心のきよい」とは自分の内にある罪に気づかされながらも一心に神に向けられている」状態を意味し、その心は神の憐れみによって与えられるのです。 

2.イエスが私達の罪を取り除いて下さったから。
なぜ今私達の心が神の方に向けられ、きよめられているのでしょうか?それは決して私達が何か霊的に優れているからではありません。ただイエスが世の罪を取り除いて下さったことによって、私達は罪人でありながらもいつでも誰でも神の方に向けられ、神を見る(知る)ようにしていただいたのです。 

3.「見えている」と思ってしまう傲慢の罪がある。
けれども「私は見えている。わかっている。」と思うところに傲慢の罪の落とし穴があります。パウロは、自分こそよく見えている、優れている、と主張し合って分裂していたコリント教会に対して「私達は今、一部分しか見えていない」と語りかけたのです。 

結論:私達は神を完全に知ることはできませんが、神は私達の表も裏も完全に知った上で私達を愛し、私達に近づいて下さいました。イエスは私達が罪人である「にもかかわらず」愛するのではなく、私達が罪人である「からこそ」憐れみ、愛し続けて下さるのです。このイエスに向けられて歩む延長線上で私達はキリストをありのままに見るのです。(1ヨハネ3:2)
(聖書引用 聖書新改訳 201702017新日本聖書刊行会)