幸いだ。あわれみ深い者は。

マタイ5:1-7
1見返りを来める取引を教えているのではない。
ここで「あわれみ深い」とは、相手の態度がどうであれ、相手の苦しみを取り除いてあげたいと願って、赦しや施しなど具体的に行動することまで含んでいる言葉です。そこで「幸いだ。あわれみ深い者は。その人達はあわれみを受けるから」と言うのですが、これはギヴ&テイク的な見返りを求める取引を教えているのではありません。人からの見返り(感謝・称賛・取引など)を求めて行うあわれみの行為は見返りがなかった時にはすぐに破綻してしまうからです。
2.主イエスこそ、ザ・あわれみ深い者。
イエスは私達から見返りを求めて私達を愛したのではありませんでした。たとえ私達がイエスに振り向いても振り向かなくても、感謝してもしなくても、イエスは一方的に私達を愛し続けて私達のためにご自分のいのちを捧げ尽くして下さいました。イエスはあわれみ深い、忠実な大祭司となるために(ヘブル2:17-18)私達罪人を突き放すことなく私達と同じ立場に立って下さいました。また魂の医者として私達の罪の問題を明らかにした上でその罪を背負い、赦し、癒し、一緒にやり直しをして下さるのです。
結論:イエスは十字架上で「完了(完済)した」と言いました。イエスは私達の罪の負債(マタイ18章の替え話では1万タラント一日当が1万円なら 6000億円)をご自分の命を払って完済して下さったのです。このあわれみ深いイエスを知り続けることによって私達も真にあわれみ深い者へと変えられ続け、神からあわれみを受けることを希望として歩んでいけるのです。
(聖書引用 聖新改訳 201702017新日本聖書刊行会)