幸いだ。義に飢え渇くものは。

マタイ5:1-6
幸いな人シリーズ④です。イエスは「幸い」に飢え渇いていている者は幸いだとは言わず、「義」に飢え渇いている者は幸いだと語りました。イエスが「幸いだ!」と言った「義」に飢え渇く者とはどんな人なのでしょうか?みことばに聴きましょう。 

1.聖書が話る義とは、神との関係が修復されること。
一般的に「義」と聞きますと正義、大義、良いこと、正しいこと、道理に合うこと、などを思いつきます。 
しかし聖書に出てくる「義」とは関係概念の言葉であり、キリストによって神との関係が修復されていること・神との正しい関係に入れられていることを意味します。(ローマ3:24)この「義」についてイエスは同じマタイ5章の20節で「あなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません。」と言われました。では律法学者やパリサイ人にまさる義とはどんな義なのでしょうか? 

2.キリストを着せていただいて神から受ける義。
律法学者やパリサイ人の義とは自分の力に頼る義であり、自分で自分を自己義認する義でした。しかしそれにまさる義とはキリスト・イエスの十字架の犠牲と復活の恵みによって神からただでもらい受ける「神からの義」を意味したのです。ですからこれは「私達が」何かまさっているのではなく、神の義が人間の義にはるかにまさっているという意味です。 

3.義に飢え渇く者とは、神との関係を切望する人。
その意味で義に飢え渇く者とは「キリストによって信じる者に与えられる義が、自分の生活を支配することを切望している人」(山口昇著 新聖書注解シリーズ マタイの福音書 P.71)であり、涸れ谷で水をあえぎ求める鹿のように神との関係に飢え渇いている人です。(詩篇42) 

結論:イエスは十字架上で「わたしは渇く」(ヨハネ19:28)と言いました。それは私達の罪を負ったゆえに神との正しい関係(義)から断絶されたからです。
しかし神はこのイエスをよみがえらせて満ち足らせて下さいました。(イザヤ53:11)義に飢え渇く者は必ず満ち足りることにな