幸いだ。柔和な(へりくだった)者は。

マタイ5:1-5
幸いな人シリーズ③です。「幸いだ!柔和な者は。その人達は地を受け継ぐから。」とイエスは語りました。
しかし私達はこれに納得できるでしょうか?世の現状を見る時に柔和な者ではなく粗暴な者が地を受け継ぎ、幅をきかせているように見えるのではないでしょうか?しかしイエスはそういう事柄もすべてご存知の上でこう語られた。みことばに聴きましょう。

1.「ザ・柔和な者」とはイエス・キリスト。
最も柔和な(へりくだった)者とはどんな人のことでしょうか?それはイエス・キリストのような人です。
イエスはいと高き神であられるのに決して上から目線で威圧的に人に接しませんでした。むしろ自ら低くなり、軽蔑されている人々と共に食卓を囲んで下さったのです。だからこそ多くの人々がイエスと一緒にいたいと願い、彼らは安らぎを得たのです。

2.「柔和な者」は悪や罪に対して軟弱ではない。
しかしながら柔和な者とはただ優しくて人に甘くて悪や罪を容認する人ではありません。イエスは柔和でありながらも宮きよめを行ったり、パリサイ人や律法学者達の傲慢さを厳しい言葉で指摘されたりしたことがありました。また、不当に打たれた時に「なぜ私を打つのですか?」ときちんと対話をして抗議されました。ですから聖霊によって与えられる柔和さとはただ優しく軟弱であることではないのです。

3.「柔和な者」とは「神に自分を任せる人。」
ではイエスが「幸いだ」と言った柔和な者とはどんな人のことを指すのでしょうか?それはイエスご自身のように黙々と父なる神に聞いて、神に自分を任せる人のことです。その人は世にあっては圧迫されたり、苦しめられたりするのですが最終的には神に擁護されることになり、(詩篇 37:9~11)殉教していったイエスの弟子達のように、やがてイエスと共に新しい地を受け継ぎ、治める者とされるのです。

結論:イエスは罵られても罵り返さず、苦しめられてもやすことをせず、正しくさばかれる方(父なる神)にお任せになりました。(1ペテロ2:23)私達も、不当に扱われることがありますが、イエスを見つめ、正しくさばいて下さる神に自分をお任せできるのです。ここに、柔和に柔軟に生きる道があるのです。
(聖書引用 聖書新改訳 2017©2017 新日本聖書刊行会)