幸いだ。悲しむものは。

20240211
マタイ5:1-3
イエスは私達が普通幸せと思う真逆の人を幸せだ、と言いました。
今日は「幸いだ。悲しむ者は。」というみことばを共に受け取りましょう。

1今悲しむ者は必ず慰められることになる。
この「悲しむ」という語は「死んだ人を悼み、愛する者を慕って狂うばかりに嘆く場合」に用いられるギリシャ語が使われています。これは押さえても押さえても涙が出て来る種類の悲しみを意味します。(バークレー著「マタイ福音書上」P.98 参照)
それでは、そのように悲しむ者は幸いだとイエスが語った理由は何でしょうか?
それは、その人達は「必ず」慰められることになるから、ということでした。(ギリシャ語の直説法・未来形は強い断定の約束を意味する。)

2神が天地創造された時、それは非常に良かった。
しかし、なぜこの世界には悲しみが存在するのでしょうか?神が天地創造された時にはそれは非常に良かったと創世記1:31にあります。しかしエデンの園の出来事によって罪がこの世界に入り込んで来た時に死も悲しみも苦しみも同時に侵入してしまったのです。世界は今、神が初めに意図されなかった状態にあります。
ですから、世にあってはキリスト信仰あるなしに関わらず全ての人に苦難が起こり得るのです。

3慰められるのを拒みたくなるほどの悲しみがある。
ヘロデ大王がベツレヘムの2歳以下の男の子を皆殺しにした時に「慰めを拒んでいる」(マタイ2:18)という言葉が引用されました。理不尽極まりない世の不条理の中にあって、私達には「そう簡単に私を慰めてくれるな!あなたに私の何がわかるのか?!」と言いたくなるような悲しみが起こることがあるのです。私達人間同士の慰めには限界があるのです。

結論:イエスは「悲しみの人・痛みを知る人」(イザヤ53:3)でした。まずイエスがゲツセマネで悲しみ悶え、土字架上で「神様なんで!?」と叫びながら私達の罪を負って死に、よみがえらされて生きておられるからこそ今悲しみの中にいる私達を必ず慰めて下さるのです。このイエスの再臨の時、神が私達の目の涙をことごとくぬぐい取って下さいます。たとえ今日がどんな苦難の日であろうと、私達はイエスにあって永遠の慰めに向かって生かされているのです。
(聖書引用 聖書新改訳 2017©2017新日本聖書刊行会)