幸いだ。心の貧しいものは。

20240204「幸いだ。心の貧しい者は。」

マタイ5:1-3


1.「幸いだ!心の貧しい者は。」とイエスは言った。

直訳的にしますと「何と幸いなことか!(何と恵まれていることか!)心(霊)の貧しい者(心が破産している者)は」という風になります。開口一番、皆がびっくりすることをイエスは語りました。普通、私達人間の常識で考えるならば心の貧しい者ではなく心の豊かな者こそ幸いだと思うでしょう。けれどもそれとは真逆の人が幸いだ、とイエスは言いました。これは一体どういうことなのでしょうか? 


2.心の貧しさを知る者は、神の憐れみを求めるから。

ルの福音書 18:9~14でイエスはパリサイ人と取税人が祈るために宮に行くたとえ話を語っています。パリサイ人は心の中で自分の立派さを神に感謝しました。一方、取税人は自分の胸をたたきながら「神様、罪人の私をあわれんでください。」(ルカ 18:13 聖書 新改訳 2017©️2017新日本聖書刊行会)と言いました。取税人は自分の心の貧しさを痛いほど知っている人だったからこそ、ひたすら神の憐れみを請い求めて義とされて帰ったのです。ここにイエスが心の貧しい者(自分の心の貧しさを知る者)は幸いだ、と語った理由が語られています。その人は自分の心(霊)の破産状態を知り、ただ神の憐れみを求めるしかできない自分の罪深さに気づかされて低くなり、ひたすらキリストを求めることによって罪から救われることになる。だから「何と幸いなことか!心の貧しい者は。天の御国はこの人たちのものだから!」とイエスは語ったのです。 


結論:神の恵みによって救われた私達が陥りやすい罪はヨハネ黙示録に出てくるラオディキヤ数会のように自分の心の貧しさを忘れて傲慢になり、いつの間にかイエスを心の戸の外に締め出してしまって自分がイエス(主)の席に座ることです。しかしそういう私達の心の戸をイエスはたたき続けて下さっています。使徒パウ口が自分の罪の惨めさを思い知ったからこそキリストにあって神への感謝を爆発させたように、私達も自分の心の貧しさを思い知る時にこそ、キリストにあって神に感謝できる幸いな人なのです。