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「イエス・キリスト・永遠の父」~ゼロ体験の中で~

20231217「イエス・キリスト・永遠の父」
~ゼロ体験の中で~
ヨハネの福音書21:1~14

イエスが公生涯をスタートしたのがおよそ30歳だったので、弟子達は皆20代だったであろうと考えられています。若くて未熟でまだまだ成長段階にあった弟子達に対してイエスさまは「永遠の父」(イザヤ書9:6)として接し、彼らを育てて下さいました。私達教会もイエスの再臨の日の完成まではずっと成長段階です。共に「永遠の父」であるイエスの姿を見つめましょう。

1.イエスは私達から「失敗する経験」を取り上げない。
この時弟子達はガリラヤ湖に来ていました。それはイエスが十字架にかかる前夜、よみがえったら先にガリラヤに行くと言っていたからです。(マタイ26:32)しかしすぐにはイエスに会えず、まだ聖霊も下っていませんから彼らは何をすればよいかわからないまま食料を得るために漁に出ました。しかし4人の元プロの漁師達がいてもその夜は何も捕れませんでした。収穫はゼロだったのです。ある牧師はこれを人生の「ゼロ体験」と呼んでいました。私達の人生にも「一生懸命やったけどダメだった」という苦い経験(ゼロ体験)が起こります。しかし実はそういうゼロ体験の中でこそ主は私たちに新しく語りかけて下さっているのです。弟子達はイエスの言った通りにした時、大漁の魚を捕りました。その経験によって、イエスとの出会いの原体験(主の召命)へと戻されたのです。イエスは私達から失敗する経験を取り上げず、その経験の中でこそさらに私達を成長させて下さるのです。

2.イエスは疲れ切った弟子達を食卓に招いて下さった。
イエスは疲れ切って帰ってきた弟子達のために朝の食事を用意し、招いて下さいました。「そんな人は知らない」と三度言ってイエスとの関係を否定したペテロもこの食卓に招かれたのです。パンを与えたイエスの手には、釘の傷跡が残っていたのです。

結論:祈りながら一生懸命やったけどダメだった、という経験があると思います。けれども永遠の父であるイエスはそういうゼロ体験の中でこそ私達に語りかけて下さっています。実はそういう体験の中で自分が砕かれ、削られ、自分がゼロになった時こそ主にとって準備万端の時なのです。(過去に聴講した講演会メモより)
主は疲れ果てた私達を赦しと憩の食卓に招き、主の召命へと導いて下さるのです。